ライプツィヒ探検
今日はただただライプツィヒを歩き回る日。
まああの重い荷物を担いでよく歩き回ったもんやw
朝の散歩に始まり、アイゼンバーン通りを歩いていく。
子どもレストランを通り過ぎ、日本の家へ。
そこにいたのは、旅行から帰ってきていたある日本人の方。
言葉を1つ1つ丁寧に扱うような人。
「ライプツィヒにはリアリティがある」その人は言った。
確かに、昼間歩いているのは難民の人たちばかり。その町で暮らしている人たちの属性が見えてこそ、都市としての厚み、バックグラウンドがあると言えるのではなかろうか。
「俺は【義理】をわかっている人たちと付き合いたいし、俺はずっとそうして生きてきた」
雲を掴むような抽象的な話。
貸借りの話ではないし、上下関係が生まれる話でもない。
母親からこうして欲しいと言われたら、自然とやってあげるような
信頼している誰かの隙間を埋める欲求をちゃんと持ってる人なんだろうなと思う。
本当にサムライのような人だ。
そうしてグレッシーミュージアムにいく。
本日は週一か月一の全美術館が無料の日。アートと人が結びつくのにとてもいいきっかけだと思う。
IKEAのような美術館。
昔のテレビやパソコンにはかなりテンションが上がった。
そして最後にアートグループのオフィスへ。
彼らはシリアスなトピックをもとに劇などを行い、それを色んな人に見せている。本当日本やったらありえんなー。
今日はきっと結びつき方の示唆の日。
つまり、人は何に興味を持ち何に魅力を感じるのか。
シリアスなトピックは言葉以外の表現からもっと入ってくるだろうし、
アート作品もそう。見たり触ったり、感じたり、そうして学んでいくのだと思う。たくさん仕掛けもあったし。
日本人の方との話もそう。
自身はかなりの有名人だという彼。全ては義理の心。それは正直さだけではなく、欲求にきちんと基づいた上で責任を持つことだ。だからこそ、言葉が重いしすごく丁寧。正直かつ相手のことも配慮された責任のある重い言葉。
津和野のコンテンツは、そのコンテンツだけで完結しているものがあまりにも多い。
見せ方1つとっても、ドイツからの学びはたくさんあるのではないか。