日本の家という空間。
自分に新たなロールモデルができた。それは大谷悠という男。
彼はなんかもう、本当ロールモデルの正解のような男だ。
・段取りがしっかりしている
・コミュニケーションがマメ
・言いたいことはきっちり言う。が、フレキシブルに対応する。が、イエスマンではない。
・他人への気遣いがハンパない
何だろう、この2週間ですっかりファンになってしまった。
全ての行動に余裕があるのだ。ありゃモテるわ。
最後に僕にかけてくれた言葉。
「町のために何たらとかじゃなくて、自分がこうしたいという思いを実現するために町を使った方がいい。そうすると町が面白くなる」
太陽は誰かのためを思って輝いている訳ではない。
結局は自分の欲求。
それを強く思い知らされた。
ああライプツィヒ。
ライプツィヒDAY
ドイツに来て1番楽しかった出来事がある。
ただのペンキ塗り…だ!
ドイツは敷金が結構高いらしく、
それを取り返すために引っ越す前に自宅のペンキを塗り直すのだという。
ということで、
日曜は大谷さんの彼女・リリーが引っ越すということで、
彼女のシェアハウスの家のペンキ塗りへ行った。
それちしてもみんな手際がいい。
一緒にいたアラブ人の彼は、もう本当によく働いていた。
僕もちょこちょこ塗らせてもらったが、これがまた中々楽しい。
周りで飛び交っているのはドイツ語ばかり…
だが、特に孤独感を感じることもなかったし、みんなとてもフレンドリー。
やっぱり一緒に作業をしてみると、前よりずっと仲が深まった。
一緒に作業して一緒にピザ食べて一緒に笑って…。
本当、誰と一緒に時間を過ごすかってめちゃくちゃ大事だなぁ。
昨日はヤスミンの彼氏と一緒に料理をしていたが、ずっと緊張していた。
何だろう、彼の威圧感か…。すごく構えてしまう自分がいるのだ。
構えるということは、何に警戒しているのだろうか。自分が傷つかないための防護壁のようなものだと思うが、原因がわからない。
何だか考えて会話をしてしまうのだ。
昨日は終始何だか気まづかった。
ヤスミンとヤスミンの彼氏とその友達がその場にいた。
そういう状況だと、自分が英語しか話せないことに引け目を感じる。
英語で話しかけることによって、相手に負担をかけていないか。
自分のブロークンいんぐりっしゆによって、相手の理解を妨げてはいないか。
くだらん質問をしているのではないか。
相手の答えを聞き取れないのではないか。
など
相手の言葉が理解できなかったり、聞き取れなかったりってのが自分は本当に多い。
その結果、なんか適当な返しをしたり、空気が乱れてしまうことが僕はちょくちょく怖いのだ。
そのソリューションって何なんだろう。。
やっぱり聞き返すことかな。
一度は場に流されても良い。それはそれで、その場を楽しむこととして必要だと思う。それにその方が楽しい。
他の外国人だったら、その場で聞き返せるのかもしれない。けど、俺は日本という国の影響を多大に受けている人間やから、やっぱりその場の空気は乱したくない。
まずはその場で流されて、後で何て言ったん?って聞き返せばいい。
それか俺耳悪いからって、最初に言っておく。これもすごく大事やろう。
耳悪いから話す価値ないくらいやったら、もう話す必要はないと思う。
それで茶化されたりけなされたりしたら、もうそれはしょうがない。
ノリで流されることも必要やし、いったん止めて自分に流れを引き寄せることも必要。
俺はある意味、ノリが良過ぎるのかもしれない。
もうちょい自分を大切にしよう。
夢にまで見た大舞台
津和野についてのプレゼンは、思ったよりも反応が良かった。
特に緊張することなく、素直な自分で挑むことができた。(多少アルコールは入っていたが)
そして今日、宮武ゆうたろうとのツモヨmtg。
彼はメディアを通して、人と人を繋ぎたいという。
僕もそれはそうだと思う。せっしーもずっと言っていたけど、メディアの本質はコミュニティ作り。
僕はどんなコミュニティを作りたいのだろうか。
僕は、様々な属性の人に読んで欲しい。
けど津和野で繋がっているみたいな。
例えば、宮武さんは観光の記事。
僕は津和野の暮らしについてブログのようなもの。
なっちゃんも誰かへのインタビュー。
坂和さんは、津和野の取り組みについて取材するなど。
まあなんかもう、ローカルニッポンでええんじゃないかと。
ただそれだと同じとこに戻る。
記事の内容はそれでいいのかもしれない。
ウェブサイトとしてどうあるべきか。
大谷さんとかモチベどこにあるんだろう。それは自分が作った日本の家をもっとたくさんの人に知ってもらいたいからか。
誰に届けたいのだろうか。多分あの人の中では常にそれが明確なのだろう。
津和野町の何を誰に届けたいのか。
どんなコミュニティを作りたいのか。
ベルリン散歩
ベルリンの街。
ロンドン的な風情を期待していたが、思ったよりも汚かった。
それでも昨日は、漫画家のかりんさんに鴎外記念館から色んなところを案内してもらい、本当に感謝。
漫画を描いている時は何10時間でも没頭できるという彼女。
僕へのアテンドももちろん抜かりなく、僕のリクエストにどこまでも対応してくださった。
鴎外記念館、大学、コミュニティスペース等々。ドイツのカルチャーについてもたくさん説明してくださる。
いやぁ、ベルリンもすごくディープ。
僕自身ももっと自分の興味を絞っていることができたら、アテンドしてもらった場所についてもっと深く教えてもらえたのかもしれない。
たくさんの物事である必要はないが、自分が興味のあることに対する問いだてと、それに対する仮説はしかと持っておくべきだと再確認した。
今日は1人、ベルリン歩き。
朝はユダヤ博物館へ。
なんか見せ方が面白い。
普通の美術館よりも、記憶に残るものだった。特に一回の塔であったりコンクリ群であったり。何か感じるものがあった。
神社のような、そこにいる人に感じてもらうための建築がそこにあった。
日本の美術館やら何やらよりもよっぽど頑張ってるね。(ちゃんと行ったことないけど)
ユダヤ人としての繋がりはあの経典だけ。にもかかわらずあんなにも強い繋がりを持つとは。
自分の活動の中で今掲げている地域の「一体感」。
ユダヤ人の繋がりも一体感やし、ナチスのホロコーストやって一体感。
いじめだって、「虐められたくない」「嫌われたくない」というネガティヴな気持ちからの一体感。
1つ対象を間違えたら、とんでもないパワーを発揮する。
そして移民排斥を掲げるAfDとかもそうだけど、不平不満というところに人々は繋がりやすい。
それが難民に向けられるとなると、、、
何だか本当に怖い世の中だ。
なんだかそこにあんまりリアリティはなかった。壁は壁だが、めっちゃ分厚い訳でもなければめっちゃ高い訳でもない。
ただどこまでも壁は続いていた。
すごくデコられ過ぎていて、何かを感じたかったけど何かが失われていた。
あの壁、東の人にはどのくらい高く分厚い壁だったのだろうか。
それほど大きなものでもないだけに、すごくもどかしかったんじゃないかなぁ。
そしてラーメンを食べ、まめちゃへ。
まあどこの都市にもある普通のジャパレスだ。そしてベルリンをプラプラして今に至る。
ベルリンという街。
まあ汚かった。
街の雰囲気もそうだし、ゴミも散らかっていたし、スプレーアートで建物は汚れていたし。
もっと都会かと思ったけど、そうでもなかったね。
何だかアメリカナイズドされている町のようだ。唯一違うのは、古くからの荘厳な建造物が残っていること。
英語もそこら中から聞こえたし。
まあ大都市なんてそんなものなのかも。。
ベルリンの特徴って何やろ。
やっぱり、東と西で違うところだろうか。そんなに見た訳ではないけど。
今回はあんまり西を見なかったからなー。
また機会はあるのだろうか…。
ライプツィヒ探検
今日はただただライプツィヒを歩き回る日。
まああの重い荷物を担いでよく歩き回ったもんやw
朝の散歩に始まり、アイゼンバーン通りを歩いていく。
子どもレストランを通り過ぎ、日本の家へ。
そこにいたのは、旅行から帰ってきていたある日本人の方。
言葉を1つ1つ丁寧に扱うような人。
「ライプツィヒにはリアリティがある」その人は言った。
確かに、昼間歩いているのは難民の人たちばかり。その町で暮らしている人たちの属性が見えてこそ、都市としての厚み、バックグラウンドがあると言えるのではなかろうか。
「俺は【義理】をわかっている人たちと付き合いたいし、俺はずっとそうして生きてきた」
雲を掴むような抽象的な話。
貸借りの話ではないし、上下関係が生まれる話でもない。
母親からこうして欲しいと言われたら、自然とやってあげるような
信頼している誰かの隙間を埋める欲求をちゃんと持ってる人なんだろうなと思う。
本当にサムライのような人だ。
そうしてグレッシーミュージアムにいく。
本日は週一か月一の全美術館が無料の日。アートと人が結びつくのにとてもいいきっかけだと思う。
IKEAのような美術館。
昔のテレビやパソコンにはかなりテンションが上がった。
そして最後にアートグループのオフィスへ。
彼らはシリアスなトピックをもとに劇などを行い、それを色んな人に見せている。本当日本やったらありえんなー。
今日はきっと結びつき方の示唆の日。
つまり、人は何に興味を持ち何に魅力を感じるのか。
シリアスなトピックは言葉以外の表現からもっと入ってくるだろうし、
アート作品もそう。見たり触ったり、感じたり、そうして学んでいくのだと思う。たくさん仕掛けもあったし。
日本人の方との話もそう。
自身はかなりの有名人だという彼。全ては義理の心。それは正直さだけではなく、欲求にきちんと基づいた上で責任を持つことだ。だからこそ、言葉が重いしすごく丁寧。正直かつ相手のことも配慮された責任のある重い言葉。
津和野のコンテンツは、そのコンテンツだけで完結しているものがあまりにも多い。
見せ方1つとっても、ドイツからの学びはたくさんあるのではないか。